「ドイツを駆ける ~ポツダム編~」
ベルリンでの介護施設視察後、ドイツで最後に訪れることになった場所はポツダムだ。皆様ご存じの通り第二次世界大戦の終戦をどう迎えるかを決定した都市である。8月号にポツダムを上げることが出来たのはとても良い機会になった。
終戦記念日として知られるのはポツダム宣言受諾が伝えられた1945年8月15日だが、国際法上で正式に戦争が終わったのは同年の9月2日だった。
ヨーロッパでは5月8日、ドイツが降伏したため、第二次世界大戦は終戦を迎えていた。しかし、日本だけは依然として戦争を続けていたため、日本をどう扱うかを決めるためにポツダムで会議が開かれたのだ。ドイツはすでに焼け野原であり、当時ポツダムだけが会議が行える状態だった。会議は4回にわたり行われている。参加したのはアメリカ、イギリス、ソ連だった。トゥルーマン(米)、チャーチル(英)、スターリン(ソ連)の3人が主として話し合いをしたようだ。あくまで日本に対し無条件降伏を強いたとされる。日本が受け入れなかったため、4回に及ぶ会を開いたのだ。そして、受け入れない日本に対し、広島、長崎に原爆が投下され、8月14日無条件降伏を決定し、8月15日に終戦となった。ドイツ、イタリアは無条件降伏がでなかったことを考えると残念だ。
この4回の会議だが、トゥルーマン、チャーチルは最初だけしか出ていない。大統領選挙のため欠席したのだ。4回全て出席したのはスターリンだけだ。このため、会議の主導権を持ったのはソ連だった。世界的な終戦はスターリンの意のままであったようだ。ソ連はロシア人以外は認めない、ドイツを半分にして鉄のカーテンを敷き、他の民族は追い出すという極端な政策をとった。朝鮮、樺太もそのため、ソ連の一部と認識したのだろう。今行われているウクライナ戦も、ロシア人以外は出て行けというソ連の意向がある。実際は第二次世界大戦でそれほど、活躍しなかったソ連が漁夫の利を得た格好になった。
誰もが知っている事かもしれないが、ポツダムに行って初めて事の次第を知った私には衝撃的な事実だった。
ポツダムでは、サンスーシー宮殿という美しい場所にも赴いた。フランスのベルサイユ宮殿そのままに創られた宮殿は素晴らしいものであった。ここの王様は、それまで木になっているものや、野菜しか食べなかったドイツ人に土の中の根っこの部分(イモやレンコン)を食べる事を教えた人だ。今では、ジャガイモはドイツの主食と言えるほど、食べられている。実際ドイツで食べた料理は半分がジャガイモであった。
宮殿の出口には、昔の衣装を着た音楽家?に出会った。フルートを一人で演奏していた。一緒に写真を撮ってもらおうとしたところ、言葉が通じない。後で解ったことだが、彼はイタリア人で英語もドイツ語も通じなかったのだ。だが、音楽とは恐ろしいもので、私がジャズと言うとかなり機嫌がよくなり、次々とジャズの曲を演奏してくれたのだ。私達は肩を組み踊り、記念写真を撮った。音楽は世界共通語と言うが本当だった。
勿論食事もポツダムの有名なレストランですることになった。一つのプレートに出てきたお勧め品はホワイトアスパラガスであった。茹でただけのアスパラにオリーブオイルを掛けただけ。簡単なのに驚いたのだが、意外と美味しい。虜になるほどだ。ビールとアスパラ。ポツダムの思い出だ。