すこやか通信-2023年2月号-

歴史に埋もれた英雄

 2022年の年末。左足骨折後、歩くことがままならない私は妻と二人で、高知県西部を訪れることにした。中村より西にはあまり行ったことがないので、全てが珍しかったが、特に印象に残る出会いがあったので今回紹介することにした。

 日本人で最初にジーパンを履き、カメラ・ミシンを持ち込み、英語の教師となった人である。日本人で初めて蒸気機関車に乗り、ネクタイを持ち込んだ。更に「ABCの歌」まで作ったのも、皆様ご存知のジョン万次郎だ。

 実は、昔の事になるが、亡き日野原重明先生と3回ほどお話をする機会を頂いた。その折、高知県と言えばまず口にされるのが、ジョン万次郎の事であった。日本の、最高の英雄であると何度も言われた事を思い出す。
 彼の幕末、維新における活躍は誰よりも大きく坂本龍馬を遥かに凌ぐものでした。何故、大きく取り上げられないのか不思議でたまらない。

 まず、その生涯について簡単に触れる。ご存知の方はご割愛下さい。
 苗字もない高知の田舎漁師の万次郎は14歳。宇佐の漁港から船出し難破・漂流します。宇佐とはローマ字で「USA」と書くので縁があったのか、アメリカに辿り着くことになります。この時助けてくれた船がジョン・ハウランド号、そのためジョン万次郎と呼ばれるようになった。アメリカでは船長のウィリアム・ホイットフィールドにお世話になり、大学で様々な事を学びます。言葉もわからなかったのに短期間ですべてを習得しています。
 そして、帰国するために西部に向かい金鉱で働いた。船を買う資金をためると、その船で琉球にわたり、薩摩藩へと帰ったのだ。

 アメリカで、学んだ方法で航海術、捕鯨術、数学、語学も教えている。世界情勢も多くの人に伝え、ペリー来国に先立って世界の情勢を伝え、通訳として働いたことは、日本の占領されるのを防いだとも考えられる。彼の経験をもとに日本は開国・明治維新へと進んでいった。
 この過程で武士として中濱という苗字をもらったのです。

 第30代アメリカ大統領「カールビン・クーリッジ」は「ジョンマンの日本への帰国は、アメリカ最初の大使を日本に送ったことに等しい。何故なら、24歳のジョンマンが我が国の本当の姿を、当時の日本首脳部に理解させていたからこそ、我々の使節ペリーは、あのような友好的な扱いを受けることが出来たのである。」と評価している。

 幕末には臨海丸の実質船長として、再度アメリカに渡ります。
 そして、1870年(明治2年)ヨーロッパへの視察団として出国した万次郎はニューヨークに立ち寄りフェアヘーブンにいるホイットフィールド船長にかつてお世話になったお礼を言いました。
 この事は、日本人は礼儀正しく信頼できる人種であることをアメリカ中に知らしめたのです。まさに、国際的英雄となりました。

 近年(2009年)、老朽化した船長の家を修復し、「ホイットフィールド・万次郎記念館」が開設されました。日米の友好のシンボルです。
 この催しに尽力されたのが日野原先生でした。日野原先生は「この記念館こそ、日米友好の原点であり、日米首脳会談の開催場所にふさわしい」と述べられました。
 高知県だけでなく、日本人だけでなく、アメリカでも光り輝いている中濱ジョン万次郎。是非とも次の大河ドラマにしてもらいたいものです。

 最後にジョン万次郎の名言二つ。
「私は、日本とアメリカの良さを両方知っている。」
「人間は全て能力で用いられるべきだ」