福田理事長のすこやか通信-2019年5月号-

インドネシア視察(その1)

 2019年4月23日火曜日、平成も後一週間。私たちはインドネシアに向かった。一日目は羽田国際線のロイヤルホテルに泊まり、視察の打合せをする。

 翌朝、7時間でスカルノハッタ空港についた。
 インドネシアは大統領選真っ只中、選挙の仕事中の職員120人の死者が出たもようだ。
 交渉役の内野さんのお迎え。スコールの後だったのか、赤道直下の暑さは感じない。インドネシアの人は男性も女性も小柄な方が多い。
 夕方になって感じたのは、街が全体的に薄暗いことだ。日本の半分の明るさだ。電気使用料は格段に低いそうだ。
 インドネシアの国旗は上が赤、下が白にツートーンだ。赤は血を白は精神を表すらしい。さて、日本の国旗は如何なるものか、自分でもよく知らないのに驚く。

 日本食を初日から食べに行った。日本食は意外と本格的で味も良い。しかも物価が安い。日本の5分の1といったところだ。
 ホテルについたがお風呂はない。シャワーだけの習慣のようだ。翌朝の散歩は6時から。まだ肌寒いと感じた。これでも27度。道路脇の木々の緑が綺麗だ。

 8時30分より、送り出し機関の コーブインドネシアの本社に向かう。
 道路は車社会だ。数は増えてもインフラが追い付かないので、三車線を五台が走っている。目をつむりたいくらいに荒い運転が続く、と言ってもまだまだバイクも主人公。ベトナムにそれほどひけを取らない。交通地獄のなかを私たちは予定時間というものを嘲笑うように進んでいく。

 インドネシアの平均寿命は70歳。平均年齢は28歳だ。老人ホームらしきものはまだ少ないようだ。したがって介護という認識もあまり無いようである。有るのは救護施設程度である。
 午後は医療短大に訪れた。800人の看護師、200人の介護士を育成しているとの事であったが、今年の卒業生はインドネシア以外に台湾、韓国、中国、中東アラビア、カナダ、ドイツなどに決まってしまったらしい。
 そこで、日本の良さと介護の将来、大切さについて一席ぶちまけてみた。意外と反応は良く、日本も今後の選択肢に入れてくれるそうだ。やってみるものである。いちいち喋るのも大変なので、同行職員には宣伝ビデオをお願いした。

 ショッピングモールに行った。何がいいのか全く分からず。
 二日目の夜はインドネシア料理を堪能した。辛いが美味しい。東南アジア1だろう。宗教上豚の料理はないが割と凝っているのだ。味は甘め、スパイスはかなり効いているが嫌みのない味だ。

インドネシア三日目

 三日目はオープンテラスの探索だ。プールの周りの明るい花たち。日陰を作り木漏れ日の見える高い木。マダガスカルアーモンド。扇風機にライトアップ。雨にも強そうな椅子。壁の時計や棚の並びにも一工夫されていて、誠和園のオープンテラスにも参考になりそうだ。

 インドネシア独立記念館に行く。独立は5年8月17日とある。ジャカルタの独立記念塔に収められたインドネシア独立宣言書の日付である。「05年8月17日」を意味する。
 05年とは、日本紀元(皇紀)2605年のことだ。昭和20年、西暦1945年である。
 宣言書に著名したのは独立運動のリーダーで、インドネシア共和国の初代大統領と副大統領になったスカルノとハッタの2人だ。

日本が大東亜戦争に敗れた翌日、スカルノら建国準備委員会はジャカルタ在勤の海軍武官、前田精(ただし)海軍将校の公邸に集まり、インドネシア人だけで17日未明までかけて宣言書を起草した。前田は後に、インドネシア共和国建国功労賞を授与された。
 スカルノらが、強制されていないのに、敗戦直後の日本の紀元を独立宣言書に用いた意味は重い。親日の思いが如何にも受け取れるのである。西暦は植民地支配への反発から避けたようで、辛亥革命後の中華民国暦のように建国を元年にすることもできたが、そうしなかったのである。

 大東亜戦争で日本は、インドネシアを350年もの間、植民地支配してきたオランダを駆逐し、軍政を敷いた。愚民化政策をとったオランダとの違いは、日本が 官吏育成学校、医科大学、師範学校、商業学校など、国づくりに必要な教育を推進したことだ。
 特に、祖国(郷土)防衛義勇軍(略称PETA)をつくり、3万8千人ものインドネシアの青年に訓練を施した意義は大きかった。彼らが植民地支配に戻ってきたオランダ軍や援軍となったイギリス軍との間で、独立戦争を戦う中心となった。80万人の犠牲を払って独立を勝ち取ったのである。
  日本へ引き揚げず、インドネシア独立戦争に身を投じた日本軍将兵は1千人から2千人もいたとされる。相当数が戦死し、ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地に葬られた人もいる。

 インドネシアでのアジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議に出席した安部晋三首相は先月22日、カリバタ英雄墓地を訪ね、祈りをささげた。その際、首相は英雄墓地に葬られた残留日本兵の墓前に献花した。
  第1階バンドン会議(1955年)では、日本代表団は、アジア独立を掲げて戦ったことを感謝され、歓迎された経緯がある。

  今回のバンドン会議での演説で、安部首相は第1回会議の逸話にも、日本がアジア独立を掲げて大東亜戦争を戦ったことが有色人種の国々の独立につながったことにも触れてはいない。
  そこには日本流の謙虚さがあるし、当時は敵国で今は盟邦となったアメリカや友好関係にある西欧諸国への外交上の配慮がある。
  首相がカリバタ英雄墓地に詣でたことは、日本人がアジア独立に貢献したことを、言葉ではなく行動で伝える機会だったが、日本ではほとんど報じられなかった。

 いつの時代でも戦争は避けるべき悲劇だ。それでも、日本が国を挙げて戦った戦争に、当時の日本人がどんな理想や意義を見出していたのか。外交場裏では語れなくても、後進の私たちは覚えておきたい。それがバランスのとれた歴史観につながる。

  ジャカルタ37度、暑いが平和だ。
  平和を感じてから、私たちはバリに向かうことにした。だが、飛行機は時間通りにはいかない。夜の11時にバリ島到着。
  真っ暗な中で着いたので朝が楽しみ。